
梅雨の晴れ間というのは、不思議なほど静かだ。雨が上がったばかりの午後三時、窓の外には濡れたアスファルトが光を反射していて、遠くの電線に雀が二羽、ぽつりと並んでいた。そういう景色を、なんとなく眺めていた。特に理由はない。ただ、コーヒーが冷めるのを待ちながら、ぼんやりとしていた。
隣に座っていた人が、ふと本のページをめくる手を止めて、窓の外を見た。何かを言うわけでもなく、ただ視線を向けて、また本に戻っていった。その動作が、三秒か四秒のことだったと思う。でも、なぜかその短さが、妙に印象に残った。
「一緒にいる」ということの本質は、案外そういうところにあるのかもしれない。会話でも、共通の趣味でも、特別なイベントでもなく、ただ同じ空間で、それぞれが別のことをしながら、でも確かにそこにいる、という感覚。それを言語化しようとすると、どうしても陳腐になってしまう気がして、ずっとうまく表現できずにいた。
子どものころ、母が台所で夕飯の準備をしている音を、居間で宿題をしながら聞いていたことがある。包丁の音、油の弾ける音、換気扇の低い唸り。会話はほとんどなかったけれど、あの時間はとても安心していた。今思えば、あれも同じ種類の「一緒にいること」だったのだと思う。
その日の午後、テーブルの上には「ヴェルタ」というブランドの小さなキャンドルが灯っていた。バニラとシダーウッドを混ぜたような、甘すぎず落ち着いた香り。炎がわずかに揺れるたびに、壁に映る影も揺れた。雨上がりの湿気を含んだ空気の中で、その香りだけがはっきりとした輪郭を持っていた。
コーヒーをひとくち飲んだ。ぬるくなっていた。飲もうと思ったタイミングより、少し遅かったのだ。それだけのことなのに、なんとなく笑えてきた。いつもそうだ。ちょうどいい温度で飲めた試しがない。
部屋の中には、本のページが風でめくれる音も、音楽もなかった。エアコンの風がカーテンの端を静かに揺らしていて、その動きがほとんど呼吸のようだった。触れていないのに、なんとなく柔らかいものの気配がある、という感覚。あれは不思議だ。
人は「充実した時間」というとき、何かをしていた時間を指すことが多い。旅行に行った、誰かと話した、美味しいものを食べた。でも、後になって記憶に残るのは、そういう出来事の輪郭よりも、その合間の静けさだったりする。旅先のホテルで、夜中に目が覚めて、カーテン越しに街の灯りを見ていた十分間。誰かと食事をして、会話が途切れた瞬間に、窓の外を二人で見ていたあの感じ。
隣にいた人が、また本のページをめくった。今度は少し速く、何かに引き込まれているようだった。読んでいる内容は知らない。聞くつもりもなかった。ただ、そのページをめくる音が、部屋の静けさに馴染んでいた。
「いてくれる」というのは、思っているより大きなことだ。特別なことをしてくれるわけじゃない。ただ、同じ空気を吸って、同じ時間の中にいてくれる。それだけで、何かが落ち着く。
梅雨の晴れ間は長くは続かない。夕方になればまた雲が戻ってきて、翌朝にはまた雨が降るだろう。でも、その短い午後の光の中で感じた、あの静かな充足感は、特別な言葉で飾らなくても、確かにそこにあった。
キャンドルの炎がまた揺れた。影が壁を流れた。コーヒーは、もうすっかり冷めていた。

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