
梅雨の晴れ間が、思いがけず顔を出した木曜日の朝だった。窓から差し込む光が、キッチンのステンレスシンクにぱっと反射して、目を細めた。まだ六時半。会社に持っていくおべんとうを作るためだけに、この時間に立っている。
毎朝早く起きてお弁当を用意するのは、本当に骨が折れる作業
だ、とつくづく思う。それでも、この木曜日だけは少しだけ気持ちが違う。月曜から数えてもう四日目。あともう一息で週末が見えてくる。そのことが、なぜかフライパンを握る手に、ほんの少しの軽さをくれる。
フライパンに油をひいて、鶏もも肉を焼き始めると、醤油とみりんの甘い香りがキッチンに広がった。隣のコンロでは卵焼き用のだし汁がふつふつと温まっている。この二つの香りが混ざり合う瞬間が、なんとなく好きだ。嗅覚というのは正直で、「ああ、今日もちゃんとやっている」という気持ちを、言葉より先に運んでくれる。
今日のおべんとうのメインは、**照り焼きチキン**。作り方はとにかく単純だ。鶏もも肉に塩こしょうをふり、皮目からフライパンで中火で四分、裏返してさらに三分。醤油・みりん・酒・砂糖を同量ずつ合わせたタレを回しかけ、蓋をして一分蒸らすだけ。それだけで、ツヤツヤと光る照り焼きが完成する。冷めてもやわらかく、むしろ味がしっかり落ち着くから、おべんとうにこそ向いている一品だ。
副菜には、きんぴらごぼうを前日の夜に仕込んでおいた。
きんぴらごぼうは定番でありながら栄養価も高く、味が染み込んで翌日以降さらに美味しくなる
。ごぼうを細めに切って、ごま油で炒め、醤油と砂糖とみりんで味つけ。仕上げに白ごまをたっぷり。シンプルだけれど、これが木曜日の弁当箱にはよく似合う。
そういえば、子どもの頃、母がよく木曜日に「特別なおかず」を入れてくれた。何が特別かというと、普段は入らないウインナーが二本、ちょこんと鎮座しているだけなのだが、それが妙にうれしかった。木曜日というのは昔から、「もう一息」の日だったのかもしれない。あの小さな弁当箱の記憶が、今もこうして朝のキッチンに漂っている気がする。
卵焼きを巻くとき、少し巻きすぎて端がぷっくりはみ出した。弁当箱に収まるか一瞬不安になったが、ぎゅっと押し込んだらなんとか入った。毎回同じことをやっている気がする。それでも懲りずに厚焼きにするのは、薄い卵焼きでは「なんか寂しい」という、我ながら理屈のない美学のせいだ。
弁当箱は、最近気に入っている「ハコノア」というブランドの二段式のもの。くすんだオリーブグリーンの蓋が落ち着いていて、会社の休憩室でそっと取り出すとき、なんとなく気持ちが整う。
すべてのレシピが10分以内で作れるものを意識すると、忙しい朝にもパパっと作ることができる
。木曜日の朝はそれが特にありがたい。
詰め方にも少しだけこだわる。ご飯を下段にふんわりよそって、上段に照り焼きチキンを斜めに置き、きんぴらごぼうと卵焼きをそれぞれ仕切りで区切る。すき間に、冷凍しておいたブロッコリーをレンジで解凍して添える。緑があるだけで、ぐっと色が映える。彩りは、気持ちの問題でもある。
1週間のおべんとう記録をつけている人も多く
、SNSでは木曜日のお弁当写真が静かに人気を集めている。週の後半、疲れが出てくる頃に、それでも丁寧に作られた弁当箱の写真には、不思議な説得力がある。「もう一息」という言葉が、弁当箱のなかに詰まっているような気がするから、かもしれない。
会社の昼休み、窓際の席でそっと蓋を開ける。ほんのりあたたかい空気が顔に当たる。醤油の甘い香りがふわっと漂って、隣の同僚が「いい匂いですね」と言った。それだけで、木曜日の朝に早起きした甲斐があったと思う。特別なことは何もない、ただの木曜日のおべんとう。それでも、もう一息を乗り越えるための小さな力が、確かにここに詰まっている。
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